終戦後の昭和20年9月、大東亜戦争により国土が荒廃していた中で、台風が発生。西日本が大被害にあい、津山の町も大人の胸まで水が浸かるくらいの被害となった。創業者は「樹木は自然のダムだ。今度は山を守るために一戦してやろう」と苗木業を始めるために奮起した。山を守り、木を育てることが国の緑化に繋がり、荒廃した国土を回復させることになると信じた。当時は食料難であり、水田を苗圃化することはあり得ないとされていたが、創業者は水田を所有する両親を説得し、最終的には水田の半分を苗圃化させた。創業者の国の緑化への使命感、両親の賛同、そして家族や知人など多くの協力がなければ日本植生(株)は存在していなかった。「努々、忘れてはならぬ人々である」
昭和26年
昭和26年4月、日本植生(株)の前身である柴田農園を創設。自力で造林用・治山用苗木の生産や販売を開始。スギ、ヒノキだけではなく、オオバヤシャブシやヤマハンノキ、キリ、クリ、カキ、モモ、ブドウ、イチョウ、サクラ、サツキなどなんでも手掛ける農園であった。また、久米町の一角に構えた小さな柴田農園が北海道~鹿児島と全国に名を知られるようになった。
昭和31年
昭和30年頃、前橋営林局技官の川端勇作氏が発明した植生盤工法を知る。創業者が日頃から考えていた仕事がその植生盤を使えばできると思い前橋へ赴いた。数年に渡り何度も前橋へ赴き、植生盤工法の教えを受け、岡山での試験を成功させ、勇作氏から商業化の許可を得た。また、昭和31年、苗木の育成・販売を続けながらも、建設業への転換を図り、同年12月に苗木屋から建設業への転換を果たした。
昭和33年
昭和34年
昭和34年8月、秋田県八郎潟干拓工事の第一期工事分として下請けかつ試験施工で植生盤工法を含む植生工を受注した。しかし、夏から冬にかけて行われた工事は、晩秋~冬の施工だと植物との温度条件が合わず、また現場が砂地であったことから、発芽時期を迎えた一部が厳しい寒波と凍結に見舞われ、昭和35年4月には現場の4割が荒れ地となっていた。「寒波と風による影響である」と役所の担当官も認めていたが、創業者は「直ちに復旧に全力投入せよ。お客様に迷惑を掛けられない。柴田農園の信用を落としてはならない。」と冷静に指示を出した。また、創業者は連日、現場の問題点に対しての的確な指示を出し続けた。被害を受けた箇所を手直しするには、当時の会社の全財産にも相当する費用が必要であったが、創業者の信念は現場の従業員にも伝わり、皆黙々と復旧作業に徹した。同年5月には復旧作業の全てが完了し、担当官に引き渡すことができた。さらに至誠が農林省に認められ、最終的に干拓工事完了までの11年間、総延長98kmにおよぶ堤防のうち、植生工事の85%を柴田農園が請け負うこととなった。「人間、いざという時にどのように対処すべきかの生きざまを身をもって教えられた」と現場の担当者であった社員は当時を振り返るのであった。
昭和36年
昭和41年
昭和48年
昭和51年
昭和52年
昭和53年
昭和55年
昭和57年
昭和58年
昭和58年1月、当時全世界のテニス界で第3のテニスコートとして話題をさらった「オムニコート」の販売、施工を主な業務とし、特長あるスポーツ施設の分野開拓を行った。オムニコートは砂入り人工芝コートであり、その基本特許は日本植生(株)と他企業との共有であった。またその後、日本植生(株)のスポーツ施設事業は、日本フィールドシステム(株)に引き継がれた。
平成2年
平成5年
平成4年、日植総合研究圃場の造成に着手。新製品・新工事工法の開発のための試験場とのり面緑化工の技術の研修場として建設。日植総合研究圃場は約9ヘクタールの面積となっている。平成5年の8月開催の「新商品発表会」までに第Ⅰ期造成を終了させるため、全社員一丸となって造成整備を行った。「新商品発表会」で合計300名ものお客様が総合研究圃場を見学した。
平成9年
平成12年
平成13年
平成14年
平成15年
平成16年
平成17年
平成18年
平成20年
平成21年
平成26年
平成27年
平成28年
平成29年
平成30年
令和元年
令和2年
令和3年
令和4年
令和5年